「ケルト神話」って何なのさ:② アイルランドの伝承概説1

前回の記事ではケルト人について、「ケルト神話」と関連する話題をお話ししました。今回は、具体的に「ケルト神話」の大部分を占めるアイルランドの伝承を見ていきましょう。

アイルランドは、地理的にはブリテン島の西にある島で、面積は北海道とほぼ同じ、高い山はないものの起伏が多く、土壌はあまり肥沃ではありません。気候としては偏西風のため曇りや雨が多いですが、暖流の影響のため緯度の高さに比して温暖です。歴史的にはイングランドの成立以降、絶えずその影響と圧力を受け続け、一時は英国領だったこともありますが、20世紀初期に北アイルランド地区を除いて独立しました。北アイルランド以外の部分はアイルランド共和国として現在も独立国として存在しています。なお北アイルランドは英国人が多く入植しているため英国に残りましたが、現在では統一に向けた動きが進みつつあります。

 

「ケルト神話」といえばアイルランドの伝承

ケルト人の中で土着の神話的伝承物語を残したのは、アイルランドとウェールズ、そしてスコットランドのみです(フランスのブルターニュ地方にもケルト的な伝承は残っていますが、それらは民話として今回は除外します)。

 

アイルランドに残った土着の伝承は非常に膨大な数であり、全貌は未だに把握されていません。ある研究者の推計では、その数は600話にものぼるとか。一方でウェールズの伝承は、それとは比すべくもない少数であり、数の上ではアイルランドが大部分を占めます。また、スコットランド高地地方の土着伝承は、前回の記事でも紹介した「オシアン詩群」であり、内容はアイルランドのものとかなり共通しています。

 

さて、大抵の人が「ケルト神話」と言う場合、アイルランドの伝承のことをイメージしています。故に「アイルランドの伝承」あるいは「ゲール人(ケルト系アイルランド人のこと)の伝承」と言うのがより正確かと思われます。「ケルト人」という語は非常に微妙なニュアンスを孕むがゆえに、あまりにケルトケルトと連呼されると非常にむずがゆい気分になるのです。前回も説明申し上げたように、島嶼ケルト人は大陸ケルト人と遺伝子的なつながりがないため、「アイルランド人なんてのは本当のケルト人じゃない」と思う極端な人も結構いるのです。

 

ところで前回から、記事では語句の使い方に非常に気を使っています。「ケルト神話」には「」をつけたり、「神話」ではなく「(神話的)伝承」などと言い換えたり。なぜならば、アイルランドとウェールズの異教的伝承は、留保なしに「神話」とは呼べないからです。というのも、神話というものは世界の始まりの時代における出来事、しかも後の人間の世にとって不可欠なものの起源(世界の誕生、人間の誕生、最初の死、穀物の起源など)を語るものなのですが、ケルト人の伝承のうち、上記の条件を満たすのは、アイルランドの「神話サイクル」(後述)だけなのです。また、その「神話サイクル」の人類起源の物語すら、全体的なフレームはキリスト教の聖書の「ノアの洪水」物語の設定に依拠しているのです(アイルランドの伝承とキリスト教の関係も後述)。これが「ケルト神話」を語る上でのもう一つの困難です。そこら辺の機微をご理解いただきたいというほど多くを求めているわけではありませんし、みなさんが「ケルト神話」という言葉を使うのを禁止したいというわけでもありません。少なくとも専門家は「ケルト神話」という言葉を進んで使わない、ということだけ覚えていただければ結構です。

 

アイルランドの異教的伝承を記録した人々

伝承物語というものは、自然と世に残るわけではありません。口承されてきたものを、何者かが書き残すからこそ、後世の人間に開かれるのです。そしてアイルランドの場合、それはキリスト教の修道士でした。アイルランドにキリスト教が布教されはじめたのは5世紀。比較的平和にキリスト教は普及しました。それから2、3世紀ほどしてからアイルランドの伝承は文字に記録され始めたのです。この事実はアイルランドの伝承について考える上でのさらなる障害となります。極端な主張として「それは土着の伝承などではなく、修道士たちの創作ではないか」といったものすら見られるのです。もちろんそれは極論であり、実際そう考えている人はほぼいません。

 

また、神話とは信仰の根拠となる物語。神話と宗教とは表裏一体なのです。既にキリスト教徒となった彼らの土着の伝承は、既に元の体裁を失っています。すなわち、神々とおぼしき登場人物(神物?)は、ほぼ全て人間のように描かれます。唯一の例外は「ダーナ神族」あるいは「トゥアサ・デー・ダナン」と呼ばれる神々のみ。彼らだけは、その種族名に「神」(デー)の語を戴いています。彼らこそは恐らくアイルランド人の信仰した神々。そんな異教の神々の存在を、キリスト教の聖職者であるはずの修道士たちが書き残したのは、どうにも奇妙な話ですが、事実は小説よりも奇であります。一神教といえばしばしば苛烈に異教を弾圧するというイメージを抱かれがちですが、少なくともアイルランドにはあまり当てはまりません。

 

キリスト教が普及し、そして聖職者が記録したがゆえに、アイルランドの伝承は先述のようなキリスト教の影響を受けました。それが特に色濃いのは最も神話的である人類起源伝承ですが、それ以外にも随所にキリスト教の影響はみられます。

 

なおアイルランドの伝承には、創世神話がありません。その理由は終ぞ聞いたことがないのですが、私の考えでは恐らく、これらの伝承を記録した人々にとっての世界創造が、彼らの信仰する神によるものだからです。神の権威の根拠は世界の創造にあります。ゆえに、世界を作り出したのが彼らの神以外の何物かであったり、あるいは勝手にできたものであったりしてはいけないのです。それ故、アイルランドの土着伝承の中に世界の始まりの物語があったとしても、それを書き残すことだけは、信仰ゆえに不可能だったでしょう。あるいは彼らがキリスト教徒となってから、そのような物語が捨て去られ、記録する以前に消えてしまったのかもしれません。

 

「サイクル」による分類、「神話サイクル」

近代以降、アイルランドの伝承は「サイクル」により分類されるようになりました。一つのサイクルの物語は同じ時代で、共通のキャラクターが登場します。アイルランドの伝承には四つのサイクルがあり、それぞれ「神話サイクル」、「アルスターサイクル」、「フィアナサイクル」、「歴史サイクル」と呼ばれます。

 

「神話サイクル」は、世界の始まりの時代、未だアイルランドにゲール人(ケルト系アイルランド人)が住み着く前の時代の物語です。主な登場キャラクターは「ダーナ神族」もしくは「トゥアサ・デー・ダナン」と呼ばれる神々。英雄神「長腕」のルグ(あるいはルー)、別名を「イルダーナッハ」(万能者)、「銀の腕」のヌァザ、大食漢の粗野な王ダグザ、戦士の神オグマ、若き愛の神オイングスなどがいます。

 

また彼らはアイルランドにやってくる際に四つの宝を持ってきました。王にふさわしい者が足を乗せると叫び声をあげるとされる「ファールの石」(あるいはリア・ファール。アイルランドの別名は「ファールの島」といいます)。この石は今でもアイルランドに存在します。そしてどんな敵も過たず殺すルグの槍。一度鞘から抜けば何人も敵わぬヌァザの剣。尽きることなく美食を供するダグザの大釜。これはアーサー王伝説の聖杯の元となった物ではないかと言われています。

 

また彼らの他に、悪鬼フォウォーレ族がいます。フォウォーレ族は常にアイルランドを自分たちのものにするべくアイルランドの支配者に戦いを挑み、一度支配権を取れば、悪政によって人々(あるいは神々)を苦しめます。彼らは時に一つ目、一本腕、一本足、などの異形の存在として描かれます。視線を浴びた者を無力にする邪眼のバロルが有名です。

 

ダーナ神族とフォウォーレ族が雌雄を決する戦いが「マグ・トゥレドの戦い」という物語です。マグ・トゥレド(「塔の平原」)での戦は二度あり、一度目の戦いはダーナ神族とフォウォーレ族が同盟して、先住者のフィル・ボルグという一族を倒します。この戦いでダーナ神族の王たるヌァザが片腕を失ったため、王位はフォウォーレ族とダーナ神族の両親を持つブレスに引き継がれます(なお医神ディアン・ケフトと鍛冶神ルフタが銀の腕を作りヌァザにつけます。その結果彼は「銀の腕」の名を取るようになりました)。しかしブレスは父方の悪しきフォウォーレ族を贔屓し、ダーナ神族に圧政を敷きます。ダーナ神族は決起し、激しい戦いの末にルグがバロルを殺し、ブレスを降参させて勝利します。

また、神話的偽史である「侵略の書」という伝承があります。これは先述したようにキリスト教の影響を大いに受け、「ノアの洪水」の前に始まり、六つの一族がアイルランドに入植しては滅ぶことを繰り返します。ノアの孫娘ケサルをリーダーとする女性ばかりの一族はノアの洪水とともに滅び、パルソロン率いる一族は疫病で死に絶え、ネヴェド率いる一族はフォウォーレ族との戦いに敗れ、フィル・ボルグ(「袋の男たち」という意味)はダーナ神族とフォウォーレ族の連合軍に敗れ、ダーナ神族はスペインから来たとされる「ミールの息子たち」に敗れ、地上世界を明け渡し、地下世界を領有するようになります。この「ミールの息子たち」こそは、後のゲール人の祖先なのです。ミール(Míl)とは「戦士」を意味します。ゲールの男は皆戦士なのです。

 

神話サイクルの伝承は、何よりも魔法に彩られています。霧と波とによって進入者を島から遠ざけ、たった一日を子供の生まれる月日に延ばし、敵の心臓を抜き取り、雲に乗って海を渡り、収穫を自在に操り、音楽で敵を眠らせ、鳥に変身する。超自然の力を操ることが、神と人とが一線を画す所以の最たるものなのでしょう。

 

アイルランドの伝承の話は次回に続きます。次回は最も有名な「アルスターサイクル」です。

 

関連書籍

 
八住利夫
『アイルランドの神話伝説Ⅰ』
名著普及会、1929年初版、1981年改版
アイルランドの伝承を広く抄訳したもの。
表現は古く固有名詞の表記も英語に依拠しているなどいくつか問題はあるが、カバー範囲は未だに随一。
上記の神話サイクルの物語が読める。
(現在絶版。図書館に置いてある場合あり。書影は筆写)
 
 
 

 

 

井村君江
『ケルトの神話―女神と英雄と妖精と』
筑摩書房、1990年
こちらも同様に抄訳。神話サイクルの物語がそこそこ豊富。
タイトルには「ケルトの神話」とあるが、アイルランドの伝承のみ扱っているので注意。
巻頭にケルト人についての概説あり。

 

 

 

 

 


マイルズ・ディロン著、青木義明訳
『古代アイルランド文学』
オセアニア出版、1987年
サイクルによるアイルランドの伝承の分類について解説した書籍。マイルズ・ディロンはアイルランドの伝承の専門家。
(現在絶版。書影は英語原著)

 

 

 

 

 


「マグ・トゥレドの戦い(英訳)」(Cath Maige Tuired)
上で説明した神話サイクルの白眉、「マグ・トゥレドの戦い」の英語全訳。
コーク大学の運営するウェブサイト、CELT: Corpus of Electronic Textsによるもの。
アイルランドの伝承に関するテクストを広く収集・公開している。
底本はElizabeth A. Gray (ed., tr.), Cath Maige Tuired: The Second Battle of Mag Tuired, Irish Text Society, 1982.
CELT: Corpus of Electronic Texts: http://www.ucc.ie/celt/

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マーズ

いわゆるケルト神話を翻訳したり、ケルト神話とケルト人に関してオンラインで書いたり書かなかったりしています。古期~中期アイルランド語が読めます。神話は半可通です。神話以外は素人です。 twitter:https://twitter.com/p_pakira note:https://note.mu/p_pakira

コメント

  1. 木村勝哉 より:

    先生! サイクル間のクロスオーバーって無いんですか?
    例えば日本だったら、ヤマトタケルの物語に「天叢雲剣」という形で「間接的に」スサノオの神話が影響してるわけですが、ケルトの物語でも一番古い「神話サイクル」は別のサイクルに引き継がれる要素があったりしますか?

    あと、フォウォーレ族ってどのタイミングで滅びたのでしょう?
    ダーナ神族が地下に行ったのにフォウォーレ族だけ誰にも滅ぼされてないのが気になってしまいまして……

  2. マーズ より:

    木村勝哉さん、ご質問ありがとうございます。

    サイクル間をまたいで登場するのは、ダーナ神族が多いです。フォウォーレ族が他のサイクルに出てくることもまれにあります。

    例えばダーナ神族のルグ神は、アルスターサイクルにおいて、息子であるクー・フラン(クー・フリン)を助けに登場することがあります。

    また、同じくダーナ神族の若さの神オイングスは、フィアナサイクルにて、養い子であるディアルマッド(ディルムッド)を助けるために登場します(noteで有料ですがこの話を紹介しているのでご参照ください:https://note.mu/p_pakira/n/nda052292f125)。

    例外的ですが、アルスターサイクルに属する、コナハトの女王メズヴ(メイヴ)と王アリルが、神話サイクルに登場します(これもnoteにて有料で紹介しています:https://note.mu/p_pakira/n/ne1033e48c239)。

    フォウォーレ族ですが、彼らは滅びません。「侵略の書」の記述を見ると、ミールの息子たちの来寇において、ダーナ神族とフォウォーレ族が同一視されている、あるいは同化しているような書き方がされているところがあります。

    フォウォーレ族は例えて言うなら地霊・地祇のような存在なのですが、ミールの息子たちによってダーナ神族が地下世界を領するようになり、その結果フォウォーレ族と同等の地位につくため、同化していったのではないかと思います。例えば、「侵略の書」でフォウォーレ族はネヴェズの一族やダーナ神族から食料を奪って苦しめますが、ミールの息子たちに負けたダーナ神族は、作物が実らないようにすることで彼らに対抗します。

  3. 木村勝哉 より:

    なるほど! ダーナもフォウォーレも滅びずにこの世の裏側みたいなところにひっそりと棲み続けてるっていう世界観なんですね。
    他のサイクルにちょくちょくちょっかい出してるのも何となく納得です。

    メズヴが出てくる話、早速ノートでポチりました。
    神話の時代から150人の乙女を侍らせて女王やってるメイヴちゃんしゅごい……