だから僕は新書書評を辞めた【新書読書】

だから僕は新書書評を辞めた【新書読書】

三中 信宏

読書とは何か 知を捕らえる15の技術

河出新書

2022/1/26

 

新書の感想を毎週載せるようになってから一年が経ちました。

ちょうど一年前の今日、この企画の最初の記事を投稿したんですね。

まずは新書から、独学を始めませんか? という誘い【新書読書】

で、突然ですが、区切りが良いのでこの定期書評は今日で店仕舞することにしました。

なので、その辺の総括というか、振返りみたいなものを書き残しておきます。

 

はじめに

実は私が最初にネットで物を書き始めたのも書評ブログで、これまでに何度も企画倒れや自然消滅を繰り返しています。

そんな中で、この一年は「新書の紹介」に絞って書評を出してみました。

 

この「新書」という用語、「新しく出た本=新刊」とよく誤解されますが、全く別の概念です。

たとえ出版から50年経っても「新書」は「新書」。

というのも、新書というのは「サイズを基準とした本の出版分類の一つ」なんですね。

一定サイズの本を指す「文庫」というカテゴリがありますが、「新書」もそれと同じ感じだと思ってもらえればいいと思います。

 

ちょっと詳しめの解説が読みたい方は以下のページなどどうぞ。

新書ってなに?文庫本とのサイズや内容の違いを解説

https://www.valuebooks.jp/endpaper/4509/

 

私はと言うと、小学生の頃から本は「それなりに読む方」(平均+1SDくらい)でしたが、「新書」というパッケージのメリットに気付いて意識的に選ぶようになったのは大学生くらいだったと思います。

この「新書」という本のカテゴリ、高校生や大学生の読書習慣についての話題で俎上に載ることが結構多いんですよね。

単なるサイズの呼称なので、実は「新書」というカテゴライズは中身について何も言及していないのですが、後述するように「それなりにまとまりを持った一群の本」と見なされる性質があります。

この「新書」という規格がなぜ特別視されるのか、ざっくりと私なりに語ろうと思います。

 

新書の「強み」は大きく3つ挙げられます。

1.マトモな本なのに小さくて安くて買いやすい

2.読みやすい日本語で、内容が古すぎたり難しすぎたりしない

3.物語ではなく、学問や科学や社会に関する読み物である

これら3つの論点について、以下で詳しく見ていきましょう。

 

マトモな本なのに小さくて安くて買いやすい

「小さい」

これは新書においては間違いない事実です。

だって「本のサイズ」こそが新書の定義だもんね。

分冊になっている本は一応ありますが、それでも一冊一冊はポケットサイズです。

 

値段も基本的に一冊千円前後で、大人が読む本としては極めて安いです。

大学教授が書くような本って、勁草書房や培風館や医学書院から出ていると3千円だの5千円だの(モノによっては1万円以上)するんですよ。

たとえ著者が1冊1万円レベルの専門書を執筆してるような大学教授でも、岩波新書から出ている本だと千円そこらで買えるわけです。

もちろん本の内容はそれなりに違うわけですが、これはスゴいことですよ。

一冊千円って言ったらもう、そこら辺で何してんのか分かんないインターネットのインフルエンサーだの、何が凄いのかわからないベンチャーの社長だの、そういう人の本を買うより下手したら安いわけで。

各界の著名人や大学教授が、子供でも買える値段のパッケージで知識を売っている。

これは新書レーベルの大きな特徴と言っていいと思います。

 

しかも多くの書店では、「新書レーベル用の棚」が用意されているので、単行本に比べて仕入れられる確率が高く、比較的小規模な書店でも扱っていることが多いです。

このように、「アクセシビリティ」において「新書」は頭一つ抜けています。

田舎の中高生にとって、自分の生活圏内の本屋でマトモな知識人の書いた本を買おうとしたら、その最適解は「新書」であるといっても過言ではないと思います。

 

読みやすい日本語で、内容が古すぎたり難しすぎたりしない

次に、多くの新書に共通するコンセプトとして、

「素人がいきなり読んでも読めるようにデザインされている」

という点が挙げられます。

 

いきなり言われても意味が分からないかもしれません。

前段の話ともかぶりますが、世の中には「そうでない本」が意外と多いという話です。

例えば「ガチの学術書」「古典」と対比してみると分かります。

 

例えば「学術書」というのは、ある程度の専門用語や数式処理や語学能力が前提となっており、「知識が無いと読みこなせない」ものが多いのです。

有機化学を分からずに薬理学の本を読んだり、キリスト教のことを分からずにキルケゴールの解説書を読んだり、中学英文法すら分からずに生成文法の本を読んだり……というのが無謀であることは何となく分かってもらえるのではないでしょうか。

こういう試みは往々にして無下に返り討ちに遭うか、曖昧で独特な「解釈という名の勘違い」を脳内に積み上げて終わることになります。

 

「古典」も同様です。

ここで言う「古典」とは『源氏物語』や『万葉集』のような国語教材に限ったものではなく、デカルトの『方法序説』やダーウィンの『種の起源』なども含みます。

読書猿氏の『独学大全』を引くならば、

「古典とは、多くの注釈書が書かれてきた書物のことを言う」

ということですね。

 

「多くの注釈書が書かれてきた書物」であるという説明を裏返せば、「古典を適切に読み解く」ためには「多くの人々が積み上げてきた読み解き方の蓄積」をそれなりに踏まえなければいけないということですよね。

 

要するに、「いわゆる学術書」「いわゆる古典」というのは、
ある意味で、「食するために調理が要る食材」だということです。

 

こうした中で、多くの新書レーベルは「それ一冊で完結した内容になる」ことを志していることが多いです。

つまり「そのまま食べられる、定食屋やコンビニ飯のような存在」です。

 

「とりあえず新書から」という意見はこういう事情から出てきているのだと思います。

 

物語ではなく、学問や科学や社会に関する読み物である

ここでちょっと話が変わりますが、大人や知識人がこどもや若者に「本を読みましょう」とか言う時に想定してる本って、基本的には「知識や教養の足しになるもの」ですよね。

おそらく少年ジャンプとか快楽天を想定してはいないでしょう。(私はこれも広義の教養だと思ってますが)

でも「学術書は難しすぎる」わけで、ちょうど良くレベルを下げると「新書」あたりでバランスが取れることが多いのではないかと思います。

少なくとも、月に2,3冊の新書を読んでいれば「もっと本を読んだ方が良いぞ」とか調子乗ってるおっさんの教養パンチはほぼハッタリだから気にしなくていい、ということが自然に分かってきます。

 

では逆にハードルをすごく下げて、「本を読むなら漫画を読もう」ではいけないのか?

「もっと本を読め」と言われて「漫画だって立派な本だよ!」と言い返した私のようなクソガキ時代を持つ方は、他にもいっぱいいるかと思います。

さっき「新書は安い」と言いましたが、漫画はもっと安いですね。

それに、漫画でも教養的な漫画はたくさんあります。

 

これについては、私なら「漫画でもいけないわけじゃないけど、広い世界には文章の本でしかカバーできない役割がたくさんあるから」と答えます。

「人類の知識の中で漫画に落とし込めるもの」って、そもそもごく一部なんですよ。

だから、「漫画も読むけど、文字で書かれた社会や自然に関する本も抵抗なく読める」という状態に自分を育てると、生きていく能力としても、人生を楽しむ能力としても、非常に大きな資本になると思います。

 

学生の頃に読書サークルに入っていたこともあるんですが、「本なら何でも読みます!」と自称する人が読んでいるものが「物語」と「いわゆる文学」に偏っていることって割とよくあるので、そういう人が視野を広げることの意義って大きいんじゃないかと思います。

高校までの国語って「物語」か「エッセイ」か「古典文学」が題材になることがホトンドなので、下手をするとそのまま「社会や自然について書かれたソリッドな文章を謙虚に読み解く」という経験をしないまま大学生になってしまうんですよね。(東大や京大レベルだとこういう文章は英語の題材として出会いますが)

そういう「俺はジアタマも良いしクチも回るから、専門知識とかよくわかんねーけど偉い奴らに負けねェ」みたいな人たちがそのまま大人になっちゃっうとSNSでどういうモンスターになってしまうか……という闇についてはここでは敢えて語りません。

 

とりあえず試しに新書を10冊か20冊くらい読むだけでも、「書籍としては手軽に買えるけど、漫画やネットではなかなか出会えない知識」が如何に世の中に多いことか実感できると思います。

偉そうに言ってますが、これは私の「こういうことをもっと前から知っていれば」という経験にも基づいています。

 

じゃあなんで辞めるの

ここまで新書を褒めると「じゃあ何で新書の更新辞めるの」って言われそう。

なのでその辺のことを最後に簡単に書きます。誰もここまで読んでないかもしれないけど。

 

そもそも、この新書書評の企画はSNSの延長で始めたことでした。

「本に慣れてる大学の先生は『最低でも新書くらい読めよ』って雰囲気出してるけど、そもそも読書習慣を持った人が近くにいないと、どんなノリでどんな感じの本から手を出したらいいかすら分かんないよね。新書だって色々あるんだもの」

みたいな話が私の界隈では定期的に噴出していて、私が何の気無しに「じゃあ『こんな感じの新書をこんなノリで読みました』みたいなレポを雑多に垂れ流すだけでもそこそこ需要ありますかね」って話をしたら結構読みたいという人が多かった、というのがきっかけです。

あくまできっかけね。

 

基本的に私は毎週複数冊の本をコンスタントに読んでいて、その中に大抵一冊くらいは新書が入っていたので、「毎週一冊の新書を紹介する」というのは「もののついで」に無理なく可能な範囲だったんですね。

ただ、そのきっかけになったSNSも色々と煩わしさを感じて辞めてしまったので、書評の方だけ現在まで続いていたのは単純に惰性によるものです。

 

加えて、私の方の変化として、この半年くらい「新書じゃ手の届かないところまで堀りたい」って分野の方が多くなって、そっちを楽しんでいると「新書を毎週一冊」がコンスタントに読了できなくなってきてました。

そもそも最近は惰性で続けてたわけだし、とすれば定期更新は辞め時かなぁと。

 

というわけで、「毎週新書を1冊紹介」という縛りはこれで終了しますが、ブログはまた何か不定期に気分次第でネタを選んで書いていこうかなと思ってます。書評も気が向いたらまた書くかも。

 

とりあえず、SNSのアプリを置いてる場所をKindleアプリに入れ替えて、岩波新書か中公新書かちくま(プリマー)新書あたりを何冊かライブラリに入れとくだけで驚くほど日々のスキマ時間の潤いが増えるので、これだけは皆さんにマジでオススメしときます。

「ウザ絡みしてくる凡人がいなくて知性と教養ある才人たちのツイートだけが流れてくるツイッターがほしい」というわがままな欲望をお持ちの方々に、「その夢、数百円で叶いますよ」というここだけの耳寄り情報をお伝えして、今回のブログは終了とさせて頂きます。

 

……と、ここまで本日は完全に紹介本と関係ない話をしちゃいましたが、まぁ紹介した本とトピックはそこそこ重なっているので許して下さい。

「読書論」と言うとどうも「物語」か「文学的なもの」を中心に据えているものか「ビジネス書」「実用書」に振り切れてるモノが多いですが、三中先生のこの本は「社会や自然について書かれたソリッドな文章」を読み解くような人に向けて書かれています。

私自身、共感すること2割、納得すること3割、勉強になったこと5割、という感じでした。

 

★NEXT STEP

Arthur Schopenhauer (原著), 鈴木 芳子 (翻訳)

読書について

光文社古典新訳文庫

2013/5/14

 

やっぱ最後はこれかなぁ。

最初に読んだ読書論がこの本で良かったなと、折に触れて感じます。

めちゃめちゃ読みやすいんだけど、それでいて、どんなステージの読書家にもチクリと何らかの棘を残してくれる、200年前の教養オヤジのツイート集ですね。

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狐太郎

読んでは書くの繰り返し。 学んでは習うの繰り返し。

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