分類思考の世界
なぜヒトは万物を「種」に分けるのか
講談社現代新書, 2009/9/17
「種は幻想」
この発言を初めて目にした時、私は非常に衝撃を受けました。
その発言が、生物学者であり「現代の博物学者」といっても過言ではない、「その道の専門家」から発せられたものだったからです。
(目にしたのがこのツイートだったかは定かでないのですが、今検索したらこれがヒットしたので、ここに貼っておきます)
【種】は幻想,【亜種】は妄想,【属】は白日夢. QT @haruyo_y: 種については、トトロ先生 @leeswijzer に暴れていただきましょー! @DrNyao: 種ってなんですか? @haruyo_y: 属ってなんですか? @pinchomidori「属って何ですか?」
— Minaka Nobuhiro 『読む・打つ・書く』の人 (@leeswijzer) June 30, 2011
それから、三中先生の発言の真意を知りたいと思い、この著書を手にしたのでした。
私の従前の認識は、「種」は生物分類の基本単位であるというものでした。
「種」という概念を疑いながら生物学を扱うなどというのは、「原子」という単位を疑いながら化学を扱うようなもので、何だか過去の生物学の蓄積に対する非常な冒涜であるようにさえ感じました。
しかし本書を読めば読むほど「種」に対する私の考えは揺さぶられました。
むしろ「近代の生物学の発展を踏まえればこそ、『種』という概念は『幻想』であると認めなければならないのではないか」というのが本書の結論であり、私は完全にこの論に完全に圧倒されてしまいました。
冒頭で述べた『幻想』とは、おそらく「そんな分類は無に帰すべきだ」という意味ではありません。
そうではなく、「『種』という実体は自然界の側に存在するのではなく、分類を行う人間の方の眼に備わっているのだ」というのが本書の主張であり、その留保を付けた上で『種』という概念と付き合って行くことを最後には肯定しています。
なぜこのような結論に至るのかは是非とも本書を読んで思考過程から納得して頂きたいのですが、簡単に言えば現代的な進化論によって各々の生物種が「進化の系統樹」とも呼ぶべき連続体に位置づけられたことと関連しています。
以下に、本書で引用されているH. J. Lam(1936)の図を(孫引きですが)引用します。
この図に見えている「断面」は「ある時点での生物群の形質の散らばり」を示しております。
この「断面」で見る限り、確かに「連続的な性質でまとめられるいくつかの集団」が成立していて、そこには「境界線」が容易に引けるように思えます。
しかし、視野を時間軸(上の図で見れば上下)の方向に拡張すると話は変わってきます。
「ある時点での生物群の形質の散らばり」は時間軸に沿って連続的に変化していきますから、集団として同じ起源を持つ個体群同士(つまり類縁関係にある『別の種』同士)は、時間軸方向の連続性まで考慮に入れるならば、どこかで繋がってしまいます。
ゆえに、過去の個体まで含めた上で生物の進化を体系化するならば、生物群は究極的に「大きな一つの連続体」にならざるをえず、そこに「種」という境界線を置くならば「人為的な境界線」とならざるを得ないわけです。
……という刺激的なこの本を読んだのは実は何年も前なのですが、
この本を最近再び引っ張り出してきたのは、「とある本」を読んだからです。
この「とある本」は下のNEXT STEPで紹介していますが、簡単に言えば精神医学における「分かること」の不安定さに関する本です。
かたや博物学者が書いた進化論の本、かたや精神科医が書いた発達障害の本。
「一体どこに共通点が?」という疑問は重々わかります。
しかし本当に同じ話をしているのです。
同じ困難を、同じ問題を、違う分野の専門家が違う例で論じています。
自然界に「自明な境界線」が存在することはほぼありません。
しかし、人類は「言葉」で知識を積み上げることで現在の多くの学問体系を築いてきました。
「連続な世界」を「不連続な言語」で切り取る時、そこには「如何に切り取るか」という問題が立ちふさがり、「境界領域をどうすべきか」という逡巡の余地が生まれます。
そう考えると、これら「自然と文明の境界域に生きる専門家」たちが、共通の問題に対する洞察を掘り下げたことには、一定の説得力があるように思えてきます。
人が「学問の足元」に目を向けるとき、「分類」は必然的に立ち上がってくる問題なのかもしれません。
★NEXT STEP
発達障害の内側から見た世界
名指すことと分かること
講談社選書メチエ, 2020/1/14
こちらが「とある本」です。
この本が特にすごいのは「結局、精神疾患というのは相対的な概念である」という定番の相対論に逃げなかったことである、と私は思います。
発達障害相対論の吹き荒れる現社会でこのスタンスに踏み込むにはそれなりの胆力が必要であり、現場で相当の葛藤を味わってきた兼本先生だからこそ、この本は書けたのであろうと思います。
そして、それは”「種」を永遠に生かし続けているのはわれわれヒトの「心」だ”と喝破した三中先生の姿と重なります。
系統樹思考の世界
すべてはツリーとともに
講談社現代新書, 2006/7/19
「分類思考」の姉妹書に位置付けられる著書。関連付けて読むと理解が深まります。
現代に生きる我々はどうしても「系統分類」という言葉(と概念)に馴染んでいるため、「系統樹思考」と「分類思考」は類義的に思えてしまいますが、考え方として全く別物であるようです。
というのも、簡単に言えば「系統樹」というのは「繋げる」ことで構築されるもので、「分類」というのは「切り分ける」ことで成立するものだから、とか。(これは私の意訳です)
もちろん「系統樹に基づいて分類する」ことは可能ですし、「分類を説明するために系統樹としてモデル化する」ことはあるので、これらは互いに排除し合う関係ではないのですが、根本の思考が異なっていると三中先生は論じています。
『系統樹思考の世界』と『分類思考の世界』は部分的に類似のトピックを扱っているので両方読むと面白いですが、内容はそれぞれ独立しているのでどちらから読んでもいいですし、片方だけ読んでも十分に多くのことを学べます。
(個人的には「いわゆる理系」の人は『系統樹思考』の方から、「いわゆる文系」の人は『分類思考』の方から読むと親しみやすいかな、などと思っていますが……これは妄想です)
狐太郎
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