頭の中に眠る神話【隙間リサーチ】

頭の中に眠る神話【隙間リサーチ】

科学者というのは意外と神話が好きなもので、科学の用語にも神話に「元ネタ」を持つものが結構あります。

今回は「神話の言葉から直接派生した用語」や「神話の有名な言葉と同語源に当たる用語」を紹介していきましょう。

 

海馬 = Hippocampus

脳の内側で記憶を作っているのが「海馬」という部分です。

“BodyParts3D, © The Database Center for Life Science licensed under CC Attribution-Share Alike 2.1 Japan.”

脳の内側にあるので外から見えませんが、名前は有名なはず。

「海馬」は日本語でも一般知名度の高い用語ですが、英語では「ヒッポカンパスHippocampus」と言います。

これはギリシャ神話に登場する幻獣の名で、「前半分が馬、後半分が魚」という姿をしています。

Wikimedia Commonsより

名前も直球で、「ヒッポ=馬」「カンパス=海の怪物」と言う意味。

 

ところで「海の馬」といえば「Sea horse」という英語名を持つ「タツノオトシゴ」が思い浮かびます。なんとややこしいことにコイツの名も「Hippocampus」なのです。

こっちは「馬」っぽいのは頭だけですが、さっきの「脳の海馬」と見比べると、どっちとも言えないビミョーな形……

記憶を司る脳の部位に最初に「Hippocampus」と名付けた人は、果たしてどちらを意図して付けたのか――

それは記録が残っておらず、わからずじまいだそうな。

 

ちなみに「馬hippo-」なら、「ヒッポグリフ」という半馬半鳥の幻獣もいますね。

また、「ヒポポタマスhippopotamus」だと「河馬(カバ)」という英単語になりますが、これは「馬hippo河potamus」と分離するとすんなり納得できます。

 

脱線ですが、「メソポタミアMesopotamia」が「間meso河potamia」と分離できることを知っていると、世界史にも応用できます。

「ティグリスとユーフラテスという二本の『河の間』に誕生した文明」なので「メソポタミア」というわけです。

アンモン角 = Ammon horn

「アモンAm(m)on」「ヤギのような角を持った神」とされています。

「アメン=ラー」とも呼ばれるエジプトの神ですが、ギリシャにもいます。

「ソロモンの72悪魔」にも入ってますね(人によっては魔神柱になってるイメージしかないかもしれませんが……)

 

いくつか像にバリエーションがありますが、こんな「巻いた角」がついてます。

Wikimedia Commons

脳には「アンモン角(カク)Ammon horn=アモンの角(つの)」という部位があります。

どこがどう「アモンの角」なのかは、図を見れば納得してもらえると思います。

Wikimedia Commons

これが脳の断面図を正面から見たところで……

From Wikimedia Commons, Edited by Kimura K

この図の赤く塗った部分が「アンモン角」です。

確かに側頭葉って正面から断面を見ると角が巻いているように見えるんですね。

 

ちなみに「アンモン角の場所って海馬とは違うの?」と思った人は鋭いです。

ぶっちゃけ場所としては同じところを言ってると思っても大体いいと思います。

「海馬」という名前で指す部位は境界線が曖昧なので、特定の部分をより具体的に言いたいときに「アンモン角」とか「海馬台」とかの用語が使われます。

 

ちなみに「アモン」に話を戻すと、同じ語源でもっと馴染みのある生き物がいます。

「クルッと巻いた角の形の化石」に名付けられたのが「アンモナイトammonite」

「-ite」「石」に付けられる接尾辞です。

発掘された当時は誰もアレが「元々は生き物」だなんて思わなかったんでしょうね。

 

クモ膜 = Arachnoid mater

「クモ膜下出血」で有名な「クモ膜」。脳の表面を覆っている膜です。

この膜を剥がしたときに、膜と脳の間が「非常に細かい無数の糸」でくっついているように見えて、これが「クモの巣のよう」に見えるらしいです。

脳外科医なら「アラクノイド Arachnoid」というだけでこれのことを指すとか。

 

ギリシャ神話に出てくる「アラクネ」は、「クモにされてしまった女」として有名。

機織りの名手だったものの、その実力を鼻にかけたあまりに不遜な態度で神を怒らせ、殺された上にクモに転生させられてしまったのでした。

 

もっとも、このお話よりも「クモの巣」「アラクネーarachnē」と呼ばれたのが先だということなので、厳密には下記のような順での語の派生ということになるでしょう。

 

アラクネ(神話の人物) ←アラクネ(クモの巣)→ アラクノイド(クモの巣のような膜)

 

なお、「アラクノイド Arachnoid」の語尾についている「○○オイド-oid」「○○の形」という意味。

これは数学にも登場します。「カージオイドcardioid」「アステロイドasteroid」はそれぞれ「心臓の形」「星の形」ですね。

「ステロイドsteroid」は分子が「ステロールsterolに似た形」をしています。

「アンドロイドAndroid」「男andro+形oid」なので、「男の形をしたもの」という意味。だから本当は女性型に対してこの語は不適切で、中性的には「人の形をしたもの」という意味の「ヒューマノイドHumanoid」の方が正しい。

「-oid」「形」という単純な語ですが、時に「ヒューマノイド」の用法のように「一見そのような形をしているが、中身は異なる」という含みが生じるのは面白いですね。

哲学でアリストテレスが用いた「エイドス=形相」という語も、「ヒュレー=質料」と対比した概念でした。

 

環椎 = Atlas

ちょっと頭蓋骨の中からはみ出てみましょう。

頭蓋骨の直下には? 首の骨がありますね。

全部で7つある「頚椎」は、3番目以降は「第○頚椎」としか呼びませんが、「一番上の首の骨」には特別に「アトラスAtlas」という名前がついています。

ギリシャ神話をご存知の方はこれだけで失笑するでしょうか。

「アトラス」とは「天球を支える巨人」です。

(昔は「地球」のように、天も「球」なのだと考えることがありました)

人間にとって頭部は特に重要とはいえ、「頭を支える骨」「天球を支える巨人」に喩えるとは、なんと恐れ多い……。

 

ちなみに、地図帳「アトラス」と呼ぶこともありますが、これも同じ元ネタです。

ある有名な地図帳が『アトラス』という題名で表紙絵にアトラスを掲げており、この地図帳が大ヒットしたため「地図帳=アトラス」という呼称が定着したらしいです。

(さらに脱線。この本の著者は『メルカトル図法』で有名なメルカトル親子です)

こちらがその本の1637年版の表紙。


Wikimedia commons

この本の影響で、地図帳のことを「アトラス」と呼ぶようになっただけでなく、今では更に転じて「身体の地図帳」である「解剖学図」も一般に「アトラス」と呼ばれるようになっています。

つまりこんな感じ。

 

アトラス=天球を支える巨人頭蓋骨を支える骨第一頚椎
      ↓
     アトラスが表紙の地図帳 → 地図帳の代名詞身体の地図=解剖学図

 

言語学的に言えば、「地図帳の一商品の呼称である『アトラス』が地図帳の一般名詞として代用される」のは「シネクドキ」と呼ばれる現象です。

こんなにコロコロ語義が広がるのは珍しいと感じるかもしれませんが、「大学入試の過去問」を出版社問わず一般に「赤本」などと呼ぶのも、同じような現象ではないでしょうか。

「オカンはゲーム機のことを何でも『ファミコン』と呼ぶ」というのも似てますね。

 

矢状断 = Sagittal

脳を真ん中から切った断面のことを「矢状断sagittal」と言います。

一番よく見る断面ですね。こんな感じの。

脳は三次元構造物なので、おおまかにxy,yz,zxの3つの平面で切り出すことが多いですが、そのうちの一つです。

(残りの2つは「冠状断 cranial=frontal」「水平断 horizontal=axial」です)

Wikimedia commons

「矢状断」を「サジタル」「サジ」と呼ぶ方もいます。

 

これと同語源なのが「サジタリウスSagittarius」、つまり「射手座」

射手座のモデルになっているのはギリシャ神話の「ケイローン」ですね。

 

先程の「矢状断」がどうして「矢」の名を冠して呼ばれるのかは、別のアングルから頭蓋骨を見ると分かります。

これは後ろの方から見下ろした頭蓋骨

分かりますか? え?わからない?

じゃあこれでどうでしょうか

はい、頭の真ん中、線でなぞった部分が、「弓」「矢」に見えませんか?

頭蓋骨の繋ぎ目を「縫合suture」と言いますが、この真ん中の縫合は「矢状縫合sutura sagittalis」と言います。

「矢状縫合」に平行な断面なので、「矢状断」というわけです。

 

辺縁系 = Limbic system

脳の「縁」に例えられる、古い脳の部分(下の図で色の付いた部分)。

ここは「辺縁系limbic system」と呼ばれ、情動や記憶に関連すると言われています。

Blausen.com staff (2014). “Medical gallery of Blausen Medical 2014“. WikiJournal of Medicine 1 (2). DOI:10.15347/wjm/2014.010ISSN 2002-4436.

某ゲームをやってる方にはおなじみですが、「リンボ」とは「辺獄」。

つまり「地獄のはしっこ」のを意味する名前ですね。

いずれもラテン語の「へり、はじ limbus」が語源になっています。

リンボLimbo=辺獄 Limbic=辺縁

英語では「手足(=体のはしっこ)」のことも「limb」と言います。

 

なお、ドラムで使われる「リムショットRim shot」LではなくRなので注意。

日本人には非常に紛らわしいですが、「フチ」を意味する別の「rim」もあるのです。

「コップの『フチ』」などに使われるのは、Rの方の「Rim」ですね。

limbとrimの語源の関連性は分かりません。(ご存知の方がいたら是非コメント下さい)

 

まだまだたくさんありますが、今回はここまで。

科学用語として聞いていた方には、語源が意外ものもあったでしょうか。

自分の頭の中に神話の名前が付けられていると思うと、なんだか不思議な感じですね。

★ひとことまとめ

★語源を知ると専門用語も面白い

★英単語とされている単語にもラテン語やギリシャ神話が散りばめられている

 

☆このトピックにオススメの本

原島 広至  (著), 河合 良訓 (監修):

脳単―ギリシャ語・ラテン語 (語源から覚える解剖学英単語集 (脳・神経編)).

NTS, 2005/4/1

医学用語は普段の英語で見ない特殊な単語が多いですが、語源を紐解くと非常に面白いことが分かります。

医学生向けの参考書ですが、言語好きにもオススメのシリーズです。

「脳・神経編」の他にも、「骨」「筋」などシリーズが出ています。

参考文献

平時は論文などを逐一参照していますが、語源については「原典」を定めるのが難しい関係上、話半分の眉唾として読んで頂ければと思います。

今回は主に参照した書籍・サイトを列挙するに留めます。

書籍

Per, M.D., Ph.D. Brodal(著): The Central Nervous System. OXFORD, 2016/5/18

原島 広至  (著), 河合 良訓 (監修): 脳単―ギリシャ語・ラテン語 (語源から覚える解剖学英単語集 (脳・神経編)). NTS, 2005/4/1

原島 広至  (著), 河合 良訓 (監修): 骨単―ギリシャ語・ラテン語 (語源から覚える解剖学英単語集 (骨編)) NTS, 2004/4/1

Web

https://www.etymonline.com/

https://en.wikipedia.org/wiki

https://ja.wikipedia.org/wiki

書いた人

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狐太郎

読んでは書くの繰り返し。 学んでは習うの繰り返し。

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